思い出したこと

どうも私は、長時間webをするとかなりの頭痛に苛まれる。
最近ちょっと自粛するようにして、休みの日の、余裕ある時にのんびりみるように心がけている。



今日はくるくるいろんなところをみていて、ふーんとかへーとか思っていたんですが


ふと、自分の考え方は「やさしい(あたたかい)のか、もしくはクール(つめたい)か?」ということを時折考える、ってことを思い出しました。
私は「KYS(空気読み過ぎ)」の称号を戴いたくらい、周りの人の「感じ」を察知してしまいます。
その察知は、マッサージ屋さんに勤務してから余計ひどくなった気がする。
「あの人はこんな感じやから、こうしとこ」とか、そういう感じであたり触りなく動くことが多い。


見返りをもとめることは、高校生くらいでそれは無理なことだ、と気づいた気がする。
まだ、見返りをもとめて、相手に挑む方が、ものすごいうっとうしいけど、熱意的なものは感じる気がする。
「あんたのこと、こんなに気にかけてるんやで!!!」という。
(相手がどう感じるか、というところを汲み取れるかどうかはKYSの技量か)
見返りをもとめることに、憧れはもっているから、恋人にはもとめてしまい、いつも失敗する
(それももう、だいぶ学習したので、当分は失敗もなさそうである)

見返りをもとめない、もはや、色々誰かと対話していて何か困ったり、自分と相手は平行線やなあと思ったときは「相手にしない戦法」を習得した。
私自身が、相当な全力投球タイプなので、いちいち全力で取り組むとものすごい疲れるってことにやっと気づいてきたってことだ。
歳と共に、回復が鈍るというのもあり。
なので、そのとき対峙してる相手を
・うっぷんを吐き出したいのか
・議論を戦わせたいのか
のどちらか見極める。そして、その雰囲気に合わせてうまく「うん、そうか、うーん、うん、」て言う。
それに伴う罪悪感と、全力で取り組んだ時の消耗とを天秤にかけた結果がこれ。



はじめて、こんな風に文字に書き出すと、やさしいもつめたいもないなあ。
こんだけ色々考えて人と接しても、別に人はいちいち覚えてないっていうのが重要。
覚えてるだろう。
根に持つだろう。
感謝してくれるだろう。
とか、そういう相手のその後を勝手に思うのがいけない。
大体忘れるのに。そういうとこに雁字搦めになるから、だらだら考え込んだりする。
してた。私。
その瞬間瞬間は、その人のことを大切に思って行動すればいいのであって…
「しゃあないしゃあない。そんなん、向こうもいちいち覚えてへんし、大体こっちもかっとなることとかあるやん」

にんげんだもの…!!